ふとした瞬間に思い出す人がいる。あの人はあなたの名前を知らなかったかもしれないし、会話だって数えるほどしかなかった。でも、あなたの心には確かにその人がいた。優しさに触れたあの一瞬が、なぜこんなにも深く残っているのか。その記憶に、ちゃんと理由があるとしたら——あなたは、それを知りたいと思いませんか?
目次
【記憶に残る“あの人”】それは誰よりも心に触れた存在
誰にでもいるはずです。直接話したわけじゃないのに、今でもふと思い出す人。
・学生時代、すれ違うたびに笑ってくれた先輩
・通学路で「おはよう」と声をかけてくれた知らない大人
・テレビの向こうでまっすぐに語りかけてきた誰か
あなたの記憶の中に残っているその人は、きっと誰よりもあなたの心を見つけてくれた気がした存在です。
心理学者デヴィッド・エルカインドは、思春期特有の感覚として「イマジナリー・オーディエンス(想像上の観客)」という概念を提唱しました。これは、自分が誰かに常に見られている、評価されていると感じる心理です。
その中で出会った“誰か”の存在が、自分の物語に深く関わってきたと感じるのは自然なこと。あなたが心のどこかで「見てほしい」「認めてほしい」と願っていたからこそ、その一言や視線が心に刺さるのです。
【パラソーシャル関係の正体】本当に“通じ合っていた”のか?
ここでひとつ、問い直してみてください。
あの人は、本当にあなたを見ていたのでしょうか?
それとも、あなたが見られたかったから、そのように感じたのでしょうか?
パラソーシャル関係とは、一方的なつながりのこと。
芸能人や配信者、テレビの向こうの誰かに対して、まるで本当の友人のように感じてしまう現象です。
これは現代だけの話ではありません。あなたの記憶にある“あの人”も、知らず知らずのうちにパラソーシャルな存在だったのかもしれません。
「私たちは友だちだった」と思っていても、その人はそう思っていなかった。
このギャップは痛い。でも、それでもいいじゃないかと、僕は思います。
大切なのは、“その感情があなたに何を残したか”です。
【現実とのギャップ】投影と向き合わなければ、心は置き去りになる
あなたが見ていたのは、もしかすると自分自身の理想だったのかもしれません。
「こんなふうに見られたい」「こうでありたい」という願いを、“あの人”に重ねていただけかもしれない。
でも、それがいけないことでしょうか?
大人になると、感情を“合理的”に処理しようとします。
「あれはただの思い込みだ」と切り捨てることが“正しい”ように見えてくる。
でも、それをやり続けた先に待っているのは、自分の心を感じられない人生です。
- 思い出すと泣きたくなるのに、無理に笑う
- 本当は傷ついたのに、「大人だから」と何も言わない
- 優しさに救われた過去を、「そんなのただの勘違い」と否定する
そんな生き方、あなたは本当にしたいと思いますか?
【“一方通行”だったとしても】その優しさは、確かにあなたに届いていた
たとえその人が、あなたの存在を覚えていなくても。
たとえその人が、あなたに特別な感情を持っていなかったとしても。
その優しさが、あなたの心を救ったことに変わりはありません。
パラソーシャル関係が持つ力は、ただの幻想ではないのです。
それは、あなた自身が心の中で築いた“確かなつながり”です。
その記憶が、今のあなたに「やさしくありたい」と思わせてくれるなら。
その瞬間が、「今度は自分が誰かの希望になりたい」と思わせてくれるなら。
それは、十分すぎるほど価値のあるものだったのではないでしょうか?
まとめ
あの人は、あなたの名前を知らなかったかもしれない。
でも、あなたの心は、その人に名前をつけた。
そのやさしさに救われたこと、誰かに言いたくても言えなかったこと。
そのすべては、あなたの中でずっと生き続けている。
そして、その記憶は、これからのあなたの人生を照らす“灯り”になるはずです。
もう一度、思い出してもいいんです。
もう一度、そのやさしさを信じてもいいんです。
あなたが「見てくれた」と感じたその瞬間こそが、
今のあなたが誰かを“見つける”ための始まりになるのだから。